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 「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで ~ 2018年11月にまとめました


「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」これは、本のタイトルです




リンゴの歩んだ道―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 単行本 – 2013/1

富士田 金輔 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%82%93%E3%81%A0%E9%81%93%E2%80%95%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%81%8B%E3%82%89%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%B8%E3%80%81%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E2%80%9C%E3%81%B5%E3%81%98%E2%80%9D%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A7-%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E7%94%B0-%E9%87%91%E8%BC%94/dp/4540122150


内容紹介

明治初期に輸入され様々な困難を克服して各地に定着したリンゴ。そのドラマを推理小説のように面白く解き明かしたリンゴ文化史

著者について

富士田 金輔(ふじた きんすけ):1932年徳島県阿波市に生まれる。1951年地元高校を卒業後北海道にわたり,北海道立農業講習所にて農業を学ぶ。1953年団体職員になる。その後会社員になり、1992年定年退職。歴史研究にはいり現在に至る。著書に『ケプロンの教えと現術生徒-北海道農業の近代化をめざして-』(北海道出版企画センター 2006年)がある。

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この本によると

日本に「西洋りんご」を持ち込んだのは、越前藩主「松平慶永(春獄)」氏のようです

越前藩は、幕府の親藩でありながら、藩主の春獄は開明派

春獄氏が、りんごの苗を輸入したのは、文久2(1862)年頃とありました、明治時代よりも前だったんですね


日本人が初めてりんごを食べたという記録は、慶応3(1867)年というのが公式記録にあり、アメリカから萃果(りんご)がたくさん送られたと言う事です

その時に、春獄は、横浜でりんごを食べた事から、越前に苗を持ち込んで栽培したのでしょう

この話を書いたのは「田中芳男」氏で、明治7(1874)年に、内務省勧業寮に勤務しています

ここの仕事は「日本の在来農業を、西洋に模して改良する」でした


在来種の「和りんご」「地りんご」を「林檎」と書いて、西洋りんごを「萃果(りんご)」と書いて、区別したのも勧業寮

明治8年に各地に苗木が配布された時にも、区別のために「萃果」が使われていたようです

(*「萃」の変換は「すい」で出てきます)

「萃」は、西洋から来た大きな林檎」という意味の「蘋果」の「蘋(ビン)」の略字です

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西洋りんごは、中東コーカサス地方が原産地と言われていて

3つのルートで日本に入って来ました

①中国→朝鮮→日本 これが「和林檎」です鎌倉中期頃

②ポルトガル→長崎(耶蘇教)→伊達政宗 これはほぼ原産地と同じ原種です

③ヨーロッパ→フランス・アメリカ→日本 これが「萃果」 明治初めで改良種です
  (フランスでは「pomme」アメリカでは「apple」)

この事で分かったのは

①種子から発芽したりんごは、元のりんごよりも質が落ちる事

②切られた枝から発芽したりんごは、元のりんごと同じ性質を持つ事

③ごくまれに、種子から発芽したりんごの中に、形が大きくなったり、甘くなったりする物がある事

長い年月をかけて、今のりんごは、出来上がったのです


今の日本のりんごは、ヨーロッパから来たと思います

ヨーロッパの起源のりんごは、アメリカの環境に適応できないまま、ほとんどがダメになり、

入植者の撒いた種から、優良品が選抜されて、改良されたようです

ですから、日本に現存する品種の多くが、アメリカ由来の品種です

開拓使が、明治5(1872)年と6年に、75種のりんごの苗を輸入しています

この品種の選抜をしたのが

「ルイス・べーマー」氏でした


その2へ続きます


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今月の、余市町の広報誌に

「雪冷(ゆきれい)」の話が載っていました


余市町のホームページ
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/

「余市町でおこったこんな話」のコーナーに掲載されると思います




「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2



つづきです


北海道開拓使は、明治5(1872)年と6年に、75種類のりんごの苗を輸入しました

当時のアメリカでは、1099種類もの品種が栽培されていましたが、その中から75種類が選ばれたのです

開拓使の「黒田清隆」次官は、前年の、明治4年にアメリカに渡り、アメリカ側の農務局長の「ホーレス・ケプロン」を開拓使の最高顧問として迎えています

その後、来日したケプロンは、4年間滞日して居ます。

1871年、次男の「アルバート・A・ケプロン」(日米両国政府公認の日本国購買代理人)にリンゴや梨の苗の注文書を発注します。

この時、開拓使がニューヨークの種苗商会に支払った、苗木や台木の代金は、「2,746ドル」



明治5年3月に、サンフランシスコから、りんご、梨、桃、プラムなどの苗木が到着したが、荷造りが悪く、苗の状態は良くなかったという

その本数は、合計4900本(りんごは、1400本)で、「ルイス・べーマー」が選定し、品種名と番号、それぞれの特徴を記録したリストがついていたそうだ

このリストは、後に「果樹種類簿」となって、その品種名が混乱なく今日に伝わっている


苗の到着と同じころ、開拓使が雇用した農業教師の「ルイス・べーマー」も来日している

開拓使東京第一官園では、明治5年の4月に、第一農園での栽培が開始されている

ルイス・べーマーの初仕事は「接ぎ木」の作業と、ケプロン日誌には記されている

この日のために、日本全国から植木職人や庭師が集められて、初めての西洋式の接ぎ木を伝授されたのです

その後、これらの職人も多くが開拓使と内務省に雇用され、全国に西洋式接ぎ木を広めていった


開拓使とは別に、農業政策は、大蔵省観農寮でも始まっていて、巣鴨の御用地が狭くなり、現在の新宿御苑に栽培地を移しています

この栽培用の苗の出所が、長く不明でしたが、最近になって、開拓使に便乗してアメリカから輸入していたと分かりました

また、明治6(1873)年に、ウィーンで開催された万国博覧会へ出かけた政府関係者が、帰国の際にフランスから大量の苗を持ち帰っていました


明治7年になると、農業対策は、内務省に移され、当時の内務省の「大久保利通」は、翌年から積極的に全国の府県宛に苗木を配布している

明治9年には、2年後に開催予定のパリ万博の準備で派遣された、外務省の2党書記生「前田正名(まさな)」氏が、各国の殖産興業を調査

明治10年に帰国した、前田正名氏は、三田育種場を開設し、樹芸振興を目指す

樹芸とは、ワイン、ジュース、ジャムなどの加工を含む果樹栽培であり、物産を栄えさせる事で、従来の農業を改良する考えのようです

三田育種場は、苗を全国に配布・指導するだけでなく、個人向けに販売もしている

販売カタログ「舶来果樹要覧」には、りんごの品種は108(フランス品種74、アメリカ品種24、その他10)とあり、フランスからの輸入が多い





明治初期、開拓使は、廃藩置県で北海道に移住した藩士たちに、開墾を進めていました

開拓使は、移住者の農業経営に西洋の技術を導入するために、西洋農学現術生徒を指導する農業教師を招きます

果樹園芸の担当の「ルイス・べーマー」氏と、牧畜担当の「エドウィン・ダン」氏です

生徒には、明治15年まで無償で苗を配布して、栽培を指導しました

そして、りんごの実が結実します


その3へつづく



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明治2年、東京謹慎中の会津藩士らの蝦夷地行きが決まり、同年9月、兵部省の管理下におかれた旧会津藩士が余市に入植します

その後、安蔵宅の同49号「国光」が日本で始めてのリンゴとして余市に結実、赤羽宅の19号は「緋之衣(ひのころも、ひごろも)」と命名されています

両方とも、べーマーの教え子でした


民間に配布された物で記録にある結実は、明治12(1879)年、余市でリンゴ初結実、緋之衣(19号、Kingof Tompkins County)及び国光(49号、Ralls Janet)となっています

官製りんごとしては、明治9年には東京の青山試験場で、10年には、札幌官園と七飯試験場で、結実しているようです




緋之衣(ひのころも、ひごろも)

余市のりんごの歴史については、別の機会に。


「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3



つづきです

開拓使が、農家に配布したりんごの結実は、明治11~13年に各地で見られるようになり

従来の和リンゴとの違いを実感し、その後のりんご栽培に続いて行きます

開拓使の札幌本庁構内果樹園では、明治14(1881)年には、りんご泥棒に手を焼いている記述まで登場しています

この頃の開拓使は、八百屋に「1斤4銭」で払い下げていました(1斤はだいたい450g)

当時の、辻そばが「1銭5厘」牛鍋が「5銭」ですから、りんごは高価な食べ物だったのです


一方、東京で栽培されていたりんごは、気候が温暖なために成長が早く日持ちの悪い品が多かった

また、アメリカからの輸入品も冷蔵設備の無い船で1か月(収穫地からは2か月)もかかる事から、鮮度が悪かったため

輸入品は生よりも、瓶詰や缶詰、ジャム、乾燥りんごなどの加工品にシフトして行きました

東京では、鮮度の良いりんごの需要が高くなっていたのです


開拓使は、明治14年の秋から、東京への出荷を始めています

日本橋の箱崎町に開拓使の物産取扱所があり、そこでの販売を始めます

ここでは、すでに、ビール、バター、チーズ、缶詰などを販売していました

(今でいう「アンテナショップ」でしょうか)


開拓農家は、りんごが東京に出荷され、高値で売れる事で、栽培にも力が入ったことでしょう

札幌の記録では、山鼻村の「水原寅蔵」氏は、西洋りんご樹700本を栽培して、明治15年には林檎の収入が「600円余」とあります
(函館新聞 明治16年11月28日付)

明治15年16年は、北海道で大干ばつが起こった年だったのですが、りんご栽培は上手く出来ていたわけです

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河野常吉」氏の談話集では

明治8年に開拓使から西洋りんご、梨の苗を1560本配布された、余市郡黒川、山田村の事が書かれています

「このとき(明治8年)、私は現業実習のため月給5円で手伝いをしていたので、各戸に10本づつ植えさせた。

その後、明治10年にもりんごの樹を分与されたので、各戸10本づつ植えさせた。

明治15、16年頃より、りんごが結実し小樽から商人が買い付けに来て高値で売れた。

私は、18年に官を辞し、官よりりんご樹苗を100本くらいもらい、19年に村に帰って植え付けた

この頃から村人は、こぞって栽培するようになった」


北海道では、有珠郡にも苗は配られ植えられました

明治15~16年には、りんごの出荷高は、2000円にのぼり、明治20年には、汽船の航路が開きます

函館、岩内、寿都、歌棄などから、出荷された金額が、5000円~6000円にも上ったそうです


余市では「会津藩士」、有珠では「仙台藩士」が、それぞれ移住して開拓した場所です

旧藩士の新天地にかけた努力が、りんごによって実ったのでしょう


日本人にとって、果樹はお金になるという認識は、実は、このりんご栽培が初めての経験だったのです

これまでは、果樹栽培は遊びであり、子供の食べ物扱いだったのです

果物栽培によって利益をあげて、果物栽培で経済を立てるというのは、りんご栽培が始まりだったのですね

そして、北海道に最適な、果樹であるりんごを選んだのが、もう奇跡みたいなものです

新しい農業(産業)は、これまでの経験やしがらみの無い北海道から始まったわけです


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そして、このりんご栽培は「東北地方」の失業武士の対策としても使われる事になります


明治4(1871)年、明治維新政府は、廃藩置県を断行します

江戸時代の藩は消滅し、新政府直轄の県へと変化しました

これによって、全国で300以上の藩が消滅したのです

弘前藩、奥羽藩も無くなり、3万4千人が失業しました

弘前藩は、田畑を買い取り、家禄15俵以上の武士に分け与えています、これが「帰田法」でした

(1俵で1人養えると言う感覚でしょうか)

農業に立ち戻って、農業で身をたてなさい」という感じです

明治政府も、東北地方の開墾をして就農させる対策をとっていたようです

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北海道では、会津藩士、仙台藩士が栽培したように

東北では、弘前藩士が、りんごの栽培を始め「りんご士族」となって、青森りんごの基礎を作っていきました

旧弘前藩士の、りんごに関しての活躍は大きく、研究にも熱心でした


「青森りんごの祖」と言われているのは「菊池楯衛」氏です




アメリカ人の農業教師「ルイス・べーマー」に接ぎ木を習いました

元々、県庁の職員でしたが、樹芸の道に進みます。退職後に北海道の七重勧業試験場に入りびたり、現術生徒から指導を受けます

北海道から帰郷する時には、りんご苗、西洋わさび、キャベツの種、馬鈴薯、アスパラガスなどを持ち帰っています

その後、「化育社」を創立し、りんご栽培の邁進しました

接ぎ木、実生(種から育てる)、台木の育成、台木に自生サンナシなどを使う方法などで、苗木の技術を確立していきます

「化育社」は、その後「津軽果樹研究会」となり、「津軽産業会」へとなって行きます


東奥義塾を創設した「菊池九郎」塾長の「本田庸一」氏は、東奥義塾直営のりんご園を作っています

また、「林檎図鑑」を翻訳出版した「佐藤弥六」(サトウハチロー氏の祖父)

「紅絞(べにしぼり)」(中畑中手)を手がけた「中畑清八郎」氏

「萃果要覧」を作った「楠見冬次郎」「佐野煕(ひろむ)」氏など




こういう人たちを「りんご士族」と呼び、青森りんごは、人材にも恵まれて、基礎がためが出来て行きました

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北海道よりも青森でりんご栽培が成功したのは、交通の利点があったからだと思います

青森りんごが量産体制となった、明治24年「青森~上野」間に鉄道が開通したのです

青森りんご VS 北海道りんご 

研究熱心で、流通の速さで、青森りんごの圧勝となったわけです


その4につづく



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なんかなんかなぁ。。。

余市の歴史本、NO.4には、会津藩士のりんご作りの記載があります




北海道は、広すぎるのと、りんご栽培に適した場所が限られていた事、輸送の利便などなどの点

今は、北海道でリンゴ栽培をしている事そのものが、忘れられてる感じなんですね

それでも、日々精進している生産者さんもいます

青森県のような公的な支援の無い中、本当に感謝の念に耐えません。。。


「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4



その後、りんご栽培は、各地で展開されて行きます

岩手県では、旧盛岡藩士が、いち早く、開拓使に苗木の要請を出しています

明治6年には、「横浜慶行」「古澤林」の両氏が、苗木を受取りに行き、それぞれの畑に移植しています

この2人は「岩手りんごの元祖」です

その後、結実した赤いリンゴを、明治天皇の天覧の供された事で「横浜早生」と命名します

後に、洋名が「レッド・アストラカン」と分かり「紅魁(べにさきがけ)」で全国的な優良品種となります

この品種は、青森県では「山野早生」と呼ばれていたようで、名前の統一は、明治27年以降の事になります

ここ岩手でも、商人の手を借りずに、生産者自らが東京に運んで販売しています

青森と岩手が、りんごの産地として名前が大きくなって行ったのは、交通網と官民両方の努力の成果なんでしょうね


盛岡果樹協会の自信の裏付けは、岩手植物試験場の「小栗嘉平」氏と、岩手県立農業講習所の「恩田鉄弥」技師の技術指導でした

特に恩田氏は、岩手県だけではなく、近隣県の農家を巡回し指導しています

また、恩田鉄弥氏は「萃果栽培法」「実用萃果栽培書」「実験萃果栽培法」などの著書も出して熱心に研究しています

この恩田氏は、
①りんご栽培を学問として取り上げた最も早い時期の学者
②農家のりんご園を試験場として、試験成果はりんご園で検証するリンゴ園の学者

この著者富士田氏は言っています

恩田氏は、りんご作りから販売、りんご園の経営までを分析した、優れた人でした

この恩田氏の最大の功績は、病害虫対策と剪定だと思います

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秋田県では、古くから和リンゴの栽培が行われていてました

現秋田市の勧業試験場に配布された苗が植えられ、「江間伊織」「吉場唯八」「長谷川謙造」氏などの士族が試植に参加しました

秋田県士族の「江間伊織」氏の庭先に植えられた果実が結実し、大きさに驚いた人たちが栽培へと広がって行きます

このりんごは「江間中手」と名付けられ、その後、全国的には「祝(いわい)」(14号)と言う品種となりました




この「」ですが、仁木町の杢保園(もくぼえん)さんに、樹齢130年を超える樹(仁木町の文化財に指定)が現存していて、未だに実をつけます




この「江間中手」は苗を希望する人たちが急増し、苗の販売という事業者が出てくる下地となったようです


リンゴ栽培に当たって、醍醐村(現横手市)の「伊藤謙吉」氏のりんご園を参考にした

藤原利三郎」氏が、秋田杉を倒して開墾し、りんご園にするという事が批判を受けましたが、独自の剪定法を作り出して成功し

「応鷹園」というりんご販売組合で一括販売し、地域活性化にも尽力したそうです


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りんご栽培が各地に広がって行くと、混乱しだしたのは、品種名問題です

りんご苗は、75種類をルイス・べーマー氏が選んで、開拓使が配布しましたが

植えて結実すると、各農園で、好き勝手に名前をつけた事で、同一品種が何個のも名前で呼ばれるという大混乱が起こり始めました

また、植えてみれば、買った時の名前とは違う品種の実がなってしまったり

結実まで、5年はタイムラグがあるのですから、結実するまで、嘘をつかれても分からないような状況なわけです

果樹栽培は、やり直しができるような簡単なものでは無いと言う事ですね


そこで、明治17年頃から「石川理紀之助」氏が、信用のおける品種名を、果樹品評会を年11回にわたって行い「萃果品定」を出している

そこには、品種の良し悪しだけでなく、台木、栽培方法の注意点などが、記載されている

その後、明治27(1894)年「萃果名称一定協議会」が開かれ協議し、品種名称が統一されて行きます

明治36(1903)年に、「萃果品定」は完結しました

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後発ですが、福島県でもりんごの栽培が、始まりました

明治17(1884)年の記録によれば、伊達郡大木戸村(現国見町)で栽培が開始されましたが、

綿虫、腐乱病、花腐れ病(モニリア)などの悩まされ、桜桃の栽培が中心となっていったようです


その5に続く

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旧会津藩士が、北海道の余市でりんご栽培を成功させ、元の会津藩でりんご栽培が成功しなかった

くしくも、初めて結実した余市りんごに「緋之衣(ひのころも)」「緋衣(ひごろも)」(19号)と名前をつけています

そこには、会津藩士の誇りが込められていました

幕末に会津藩は京都守護に任じられ、孝明天皇から下賜された「緋の御衣」は、勤王の象徴であり、会津藩士の誇りでした

平成12(2000)年になって、会津若松市門伝町と余市町での交流を記念して、会津若松市に「緋の衣」が移植されました




会津藩士の誇りが、里帰りですね



福島県では、桜桃にと変化したように、今、余市町では、果樹は「ワインぶどう栽培」への流れになっています

北海道初の「ワイン特区」となった余市町では、隣の仁木町と一緒に、余市・仁木ワインツーリズムプロジェクトをやっています


余市・仁木ワインツーリズムプロジェクト
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/wine-tourism/






「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5



りんごの栽培では、勧業寮が主導した事で始まった地域が多かったわけですが

違うルートでりんごの苗が持ち込まれて、勧業寮の苗配布よりも早く栽培を始めていたのが長野県です

信州りんごのルーツは、更科郡八幡村(現更埴市)の和田郡平氏が、有栖川熾仁親王から苗木を下賜されていました

それは、明治6年頃と言う記録があります

和田家は、松代藩時代からの代々続いた庄屋を務めた造り酒屋で養蚕もしています

郡平氏は、郡会議員であり、稲荷山銀行(後の八十二銀行)の初代頭取です

その人が、りんご作りに熱中したわけですから、影響力は半端なものではありません


その後、勧業寮からの苗の配布も始まり、明治12年には、更級郡真島村(現長野市)の中沢治五右衛門氏が2本植えて

明治18年には、村の鎮守祭りで「アレキサンダー・オートレィ」を奉納しお披露目で好評したことで

子息の貞五郎は、横浜で15種類の苗を購入して1反歩を植えています

その後、横浜から購入するルートで、長野県全体で、りんごの栽培が始まっていました


しかし、和田氏や中沢氏のように栽培面積を拡大する人たちは少なく、趣味観賞用であり、商売としては確率して行きませんでした

長野県では、養蚕業の増加時期にあり、実績のないりんごや果樹の栽培は停滞してしまいます


伸び悩むりんご栽培の転機は、明治30年頃で、ちょうど「日露戦争」の始まった頃ですが

県下では、明治26年に桑畑が大凍霜被害を受け、大減収となり、29年には大水害で桑園が壊滅した時期とも重なります

りんご栽培への転作が、起こったのです


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明治の初めに始まったりんご栽培は、北国の商品となり、多くの生産者に歓迎されました

果樹は、お金にならないという定説を覆し、異国の果物に興味を持ち、広めた人たち

種類を整理して、選抜してくれた果樹教師と教え子の方々、図鑑を作って名前を統一した人たち

たくさんの努力と知恵が、りんごを育てて下さった事に、感謝しかありません


ここまで、続いて来た裏には、尽力された人たち、守り育てた方々全ての功績です



そうそう、地域で別々の名前で作られていた品種名の統一ですね





北海道では、番号で呼ばれる事が多く、6号、12号、14号、19号、49号だけで、年配者には今でも通じます

初めに覚えた事は、意外と覚えているものですね




旭(あさひ)」りんごは、磨くとピカピカと輝いている事から、命名されましたが

元々の名前は「マッキントッシュ・レッド」です

iPhone(アイフォーン)のりんごのロゴマーク、実は「旭」りんごがモデルです

Appleのロゴ


Appleを作ったのはスティーブジョブスですが、初期のロゴは「時計」だったんですよね

りんごに変えたのは、何か意味でもあったんでしょうか

ピコ太郎氏のPPAPも、素材に選んだのが「Apple」じゃなかったら、ここまで流行ってなかったかもね



その6に続きます


「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6




りんご栽培が各地で広がり、日本の農業は変化を遂げました

しかし、果樹栽培には、様々な困難が待ち受けていました

「病害虫」「化学肥料」「食糧管理法」などがあげられます


中でも、一番目の苦難は、病害虫対策です

これを駆除予防する事を「防除」と言いますが、明治時代に樹を枯らさないために薬物があったわけではありません

明治21(1888)年の防除の技術としては、対処療法として、

ルイス・べーマーの教え子の農業現術生徒の「永根平教」氏が出した「果樹栽培心得」が北海道庁から出版されています




虫の駆除に使われたのは「たわし」「へら」「石鹸」「石油」「苦木」「石灰」ダメなら「焼く」でした

まだ、殺虫剤も、殺菌剤も開発されていない時代では、これが最先端技術でした


アメリカでは、石油乳剤が開発され、これが農薬の始まりとなりました

殺菌剤としては、フランスが開発した「ボルドー液」が登場しています

フランスでは、ぶどう栽培での「べド病」に苦慮していて、これが開発されたのです

ボルドー液は、現在でも使われている薬品で、石灰と硫酸銅乳液で作られているものです


まだ「噴霧器」が開発されていなかったこと、殺虫剤や殺菌剤を使いこなせなかった事で、

防除が上手くいかずに廃園に追い込まれる事が発生し、地域全体で取り組まなければ効果が無い事も分かって来ました


そこで、農商務省が、明治29年に「害虫駆除予防法」を制定し、強制的な防除を進めました

明治30年に、青森で「アメリカ製の噴霧器」が使われ効果があった事で、明治43年には国産の「手押し式噴霧器」が発売され普及

粉末化したボルドー液の販売も同時期で、明治44年には、殺虫殺菌剤の「札幌合剤」が開発されています

札幌農学校の「宮部金吾」博士や試験場の技師などが、ボルドーを推奨し繰り返し教えていたようです

農家は、ボルドーのせいで落葉が落ちると信じていたため普及が遅れました

宮部教授の元で技術を得た「三浦道哉」氏は、青森県立農業試験場に着任後に研究を重ねました

三浦技師は、落葉は褐斑病のせいだと言うのを究明、更に腐乱病、モニリア病の侵入経路や生体を研究して大きな成果を残しています


りんご栽培の存亡は、この防除対策で明暗を分けて行きました


明治38年に、北海道・東北地方の病害虫の様子の記録が、北海道庁の「相沢元治郎」技師によって記録されています

岩手、福島、山形では、「りんごわたむし」が発生

山形県庁では100万駆除の方法を講じたが注意するものはなく、篤志者の辛苦は徒労に帰し、朝に駆除しても夕にはまた発生し

その駆除にほとほと疲れ「リンゴは、本県に適さない」のではないか」と言う者まで出て来た、とあります

しかし、米沢地方では、業者間の規約で駆除を遂行したため、同地方のりんご栽培はなお盛況とも


地域ごとの取り組みによって、大きな差が出て来たわけです

北海道庁の報告書によると、一番栽培に熱心だったのは、「青森県」という指摘があります

果樹の手入れが完全であり、清潔であり、薬剤から機材、顕微鏡に至るまで、設備し研究に余念がないと羨望のまなざしで報告しています


北海道でのりんごの品質が、青森県などの東北地方に及ばず、評価を落としつつあるのが何故なのかと言う分析では

栽培家が不熱心、不忠実、管理が不行き届きである結果と結論付けています

自然的には、北海道はりんご作りに適しているので、栽培方法の改良と熱心な経営に従事すれば、彼らを凌げるはずだから、覚醒を促しています

明治41年には、北海道では「花腐れ病(モニリア)」が蔓延し、大打撃を受けています


青森県では、熱心に防除に取り組み、北海道では、手の施しようが無くなっていました


多くの研究者の尽力によって、大正期に入ると、青森式栽培法が全国へと広がり定着して行きました




リンゴ栽培は、岐路に差し掛かります

「日本りんご」への品種改良への道です



その7へつづく


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脳の大型化に果実が後押しという記事が出ていました

この記事で思った事は

やっぱり、「りんごは知恵の実」だったのかなと言う事

日本で、同時多発的にりんご栽培が起こっていなかったなら、果物の栽培は始まっていないかも知れないからですね

りんごは、果実の総称とも言われてますし、りんご1個で医者いらずとかの格言もあったり

世界中で、りんごは愛されて来たんだと、ものすごく実感しています

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人間の脳の大型化、果物が後押しか 研究
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170328-00000004-jij_afp-sctch(記事は削除されています)
AFP=時事 3/28(火) 8:40配信

【AFP=時事】現在最も手軽に食べられるおやつ、果物のおかげで、人間は大きくて強力な脳を発達させることができた可能性が高いとの研究論文が27日、発表された。

 果物を食べることが、植物の葉などの最も基本的な食料からの重要な進歩となり、より大型の脳を成長させるのに必要なエネルギーを提供したと、研究チームは主張している。

 論文の責任著者で、米ニューヨーク大学(New York University)の研究者のアレックス・デカーシエン(Alex Decasien)氏は、「このようにして人間は、これほど非常に巨大な脳を手に入れ」、「食物の質を大幅に拡大して今の食事につながっている」と語った。

 米科学誌「ネイチャー・エコロジー・アンド・エボリューション(Nature Ecology and Evolution)」に発表された今回の研究では、霊長類140種以上の主食を調査するとともに、霊長類の食べ物が最近の進化の間にそれほど大きく変化していないと仮定した。

 研究によると、果物を食べる霊長類は、葉を主食とする霊長類よりも約25%大きな脳を持っているという。

 より大型の脳は、複雑な社会集団の中で生存、繁殖する必要に迫られて発達したとする説が、1990年代半ばから主流となっているが、今回の結果はこの説に疑問を投げかけている。

 集団の中で生き抜くという難題は、知能を高める一助となった可能性はあるが、霊長類の社会生活の複雑さと脳の大脳皮質(灰白質)の大きさとの間には何の関連性も認められないと、デカーシエン氏は指摘した。

 脳の大きさと強く相関していたのは、果物を食べることだった。

 果物などの食物は、葉などの栄養源よりも豊富なエネルギーを含んでいるため、より大きな脳を発達させるのに必要な余剰エネルギーを生み出す。

 同時に、果物が実る植物の種類やその木が生えている場所、果実をこじ開ける方法などを記憶することが、霊長類が大型の脳を成長させる助けになった可能性がある。

 また、脳が大型なほど、脳の機能を保つのにより多量のエネルギーを必要とする。

「人間の脳は体重の2%なのに、全エネルギーの25%を消費しているというのは、周知の事実だ」と、デカーシエン氏は述べた。「脳は、非常に高くつく臓器なのだ」 【翻訳編集】 AFPBB News

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未だに名前がつけられていないりんごも多いです

そして似た名前のりんごが多いです

更に、長い名前のりんご名が増えて困ってしまいます。。。


「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7



大正時代に入り、農業は新しい時代になりました

まず、変化が起こったのは「稲作」です

冷害に負けない、病気にも強い、そして美味しい米の「奥羽132号」の誕生です

東北地方の冷害問題は改善され、稲の優れた遺伝子の研究が始まります

奥羽132号の遺伝子は、今なお「コシヒカリ」「ササニシキ」「あきたこまち」「ひとめぼれ」にも受け継がれています


メンデルの法則が品種改良に応用され、遺伝子の研究が進みました

メンデルの法則が、日本で紹介されたのが、明治33(1900)年、2年後の明治35年には、札幌農学校の「星野勇三」博士が解説し研究しています

明治40年には、同校の明峯正夫教授が、「種子普及種」を発表し、日本でも育種学が誕生しました

星野博士は、大正8(1919)年に、果樹の自家不和合性に関する研究があり、りんご、ナシ、甘果桜桃を対象に研究した成果を発表されています

星野博士が、日本での園芸学、遺伝学、育種学の先達であり先駆者なのです


りんごの品種改良が、波及して実行されるのは、昭和に入ってからになります

昭和2(1927)年に、青森県立農事試験場園芸部の主任技師「須佐寅三郎」氏が赴任し、翌年からりんごの交雑試験を始めました

須佐技師の当時の品種評価によれば

「紅玉=代表品種で優良だが、生産コストが高く、ゴム病、黒点病、モニリア病に冒されやすい」

「国光=乾燥に弱い、果実に色が乗らない、春に早く味が変わる、紅国光でも鮮紅色は今一歩」


りんごの品種改良は、元々、大変難しい事なのです

読後1でも書きましたが

人工交配で種を採っても、実生(種から育てる事)では、元の品種よりも劣る事

その中から、優良個体を探すのは時間も資金もかかるし、至難なのです

それでも諦めなかった須佐技師ですが、星野博士が見込んだ優秀な人物です

須佐氏は、実は星野勇三博士のもとで園芸実習生として学び、アメリカへ渡米しカルフォルニアで園芸学を学んだ人なのです

更には、ニューヨークの植物園で育種学まで学んで、昭和2年に帰国したという経歴を持った人でした


須佐技師は、紅玉、国光を凌ぐ極上の品種を作り出すという難題に挑戦し続けます

紅玉よりも病気に強く、国光よりも色が優れた味の良い理想の品種への道が、やっと始まったのです


りんごは、交雑しないと受粉しません

一種類では、受粉しない性質を「自家不和合性」と言います

一般では、自家受粉しないとも言います

果樹全体は、この傾向が多いようです


その8につづきます


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「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8



理想のりんご作りへと歴史が移っても、それは遠く険しい道のりでした

自然界で起こる受粉を人為的にやる「人工交配」ですが、りんごは自家受粉しない(自家不和合性)わけですから、同一品種ではなく、異品種間の交配でなければ受粉しません

また、母親となる品種、父親となる品種をも遺伝子的な相性なども選抜して、交雑して試験を繰り返します

そこには、実がなるまでの時間も必要であり、交雑試験には、かなりの時間と費用がかかるわけです


昭和初期当時の優良品種は、「国光」「紅玉」「祝」「旭」「印度」「紅魁(べにさきがけ)」などですが

(国光)

そこに「ゴールデン・デリシャス」という黄色いりんごが輸入されて、親として選ばれました


(ゴールデン・デリシャス)

今時なら「トキ」「黄王(きおう)」「星の金貨」「金星」「シナノゴールド」などと外見が似ている品種です

他にも「デリシャス」「スターキング・デリシャス」「リチャード・デリシャス」なども使われました

(デリシャス)

(リチャード)

「スターキング・デリシャス」は、「デリシャス」の枝替りで、東京の千疋屋さんが、アメリカのスターク商会から輸入して一世を風靡しました

https://twitter.com/kitakazoku2 のアイコン画像は、復刻版の「デリシャス」です

アメリカの新品種は、全て偶然実生で、人工交配品種ではありません

本場でもできなかった人工交配を、後発で栽培が始まった日本がやろうとしていたのです


須佐寅三郎氏が実験した、いくつかの交雑の中で、昭和5(1930)年に、「ゴールデンデリシャス×印度」があります

印度りんごは貯蔵が出来て甘い品種ですが水分が足りない、ゴールデンは栽培しにくく貯蔵がきかない

そこで、印度の貯蔵性とゴールデンの水分の長所を持つりんごが出来るのではと考えたわけです

同じく、「ゴールデン・デリシャス×紅玉」の組み合わせも同時に行われました


交雑してできた実の種を植えての繰り返しです

種から育てる事を「実生(みしょう)」と言います。実生の植物は「シードリング(seedling)」と呼ばれています

実生苗を選抜し、葉や樹勢を見ながら淘汰し、見込みがある苗だけを育てるのです

実がなるまでに淘汰された樹に、良い品種があったかも知れなと言うジレンマで苦しい作業だと思います


青森県では、この研究をバックアップして昭和6年に県立「萃果試験場」を設立、須佐技師が初代の場長になっています

昭和13年に国立の農業試験場が、青森県藤崎町に誕生します

そこに「新津宏」技師が赴任、さらに須佐技師の交雑試験を手伝っていた「村本政雄」技師技師も赴任します

青森県では、2つの試験場で競い合うように、交雑試験を同時に行うようになったのです


国立の試験場が目指した理想の品種は

早熟種「祝」よりも着色、品質に優れたもの

中熟種「旭」よりも酸味が少なく、着色品質、日持ちが良い物

晩熟種「紅玉」級で、耐病性が強く、着色品質、貯蔵性に優れた物

晩熟種「国光」に代わる品種で、栽培が容易で芳香を有し着色の良い物

味、色、貯蔵性、香り、作りやすい、そういう思いをかなえてくれる品種を求めたのです


すでに「祝」「国光」「印度」「ゴールデン・デリシャス」は、市場には出回っていません

個人的に栽培していたり、受粉用に樹を残している人は、いますけど、最近は見てないですね


日中戦争や太平洋戦争と勃発し、交配試験は危機を迎えます

多くの技師たちも招集されましたし、食料増産が主となり、果樹栽培は冷遇されるようになりました

肥料や農薬は配給停止になり、人手不足でりんご園は荒廃していきます

更には、りんごで「航空機燃料」を作る事を命令されたりで、昭和16年~20年に、りんごの交配は中断されています


ちなみに、戦中は、横文字が使えなかったため、全てに和名がつけられています

デリシャス=陽玉

ゴールデン・デリシャス=黄冠

リチャード・デリシャス=瑞光

スターキング・デリシャス=太陽


その9に続きます


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樹は古くなると、花は咲いても小さな実しかつけなくなるようです

今の台木だと、りんごの樹の寿命は40年くらいと言われていますが

各地で残る100年超えの樹の品種のほとんどが「祝(いわい)」のようです

「江間中手」と同品種ですが、北海道では「14号」とも呼ばれます

この「祝」という名前は、当時、皇太子だった大正天皇のご成婚をお祝いして命名されたようです

少し酸味があって、ジューシーでりんごポリフェノールが多い初夏のりんごです




今は、お盆のりんごは「つがる」に変わりましたが、以前は、青めの祝りんごが主流だったようです


「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9



戦争が終わり、「りんごの唄」に癒された日本人です

りんごの唄 並木路子


この、リンゴの唄の作詞家の「サトウハチロー」さんの祖父の「佐藤弥六」氏は、青森りんごの指導者であり功労者です

りんご士族の一人として、りんごの栽培に携わり、「林檎図解」を書いています


戦地からの復員者が増えると、農園の人手不足は解消し、戦争で荒廃したりんご園は徐々に復活して行きました

昭和21(1946)年には、土地改革があり、小作人の土地所有が許されると、りんご園も増えて行きます

昭和22年には、農業協同組合法が出来て、農産物の出荷販売や権利などが守られるようになりました

同時に、農産物の育成者を保護する目的で「農産種苗法」が制定されました


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終戦直後に、青森県黒石市にある、青森県りんご試験場(現:青森県産業技術センターりんご研究所)で、続けられていた、りんごの選抜試験が結実します

守り続けていた交配試験樹の「果実形質試験」「経済試験」が行われました

「果実形質試験」とは、食味、果肉の硬軟、果汁の夥多、外形、色合いなどを選抜する試験です

「経済試験」とは、耐病性、栽培の難易、収穫量、貯蔵性などを総合的に判断し、地質や気候の適性などからの選抜試験です


日本で正式に交配し誕生した品種たち

<陸奥(むつ)>

昭和5(1930)年に、「ゴールデン・デリシャス」×「印度」を交配した実生の中の1本

試験結果「果肉は黄白色、肉質はやや粗、多汁で芳香あり、甘酸適和で食味、貯蔵性良好」とあります

陸奥と命名されたのが、昭和24年で、「農産種苗法」の第1号品種になりました


<つがる>

昭和5年の交配で「ゴールデン・デリシャス」×「紅玉」ですが、長い間、掛け合わせの「紅玉」が不明であって

種苗登録は、交雑試験から、45年後の昭和50年になってからです

両親の形状を受け継いで、肉質は緻密、果汁多く、酸味が少ない人気の品種です

世界でも人気がある品種だそうです(2002年に世界統計で21位)


<世界一>

昭和5年交配で「デリシャス」×「ゴールデン・デリシャス」

昭和49年に「青り4号」として発表されましたが、1個の重さが500gにもなる大きなりんごという事から「世界一」と言う俗称で呼ばれ、その後に登録されました

果肉は黄白、多果汁、酸味は少なく、食味良好の評価


青森県りんご試験場で誕生した他の品種

「北斗」「星の金貨」「あおり21」「千雪(ちゆき)=あおり27」などがあります

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岩手県盛岡市の農林省園芸試験場東北支場(現:果樹研究所りんご研究所)で交配育種された実生苗は

昭和14(1939)年~16年までで、総数13,775本だそうです

選抜され、淘汰され、最後まで残った登録品種が「ふじ」「あかね」「はつあき」の3本でした


<あかね>

昭和14年、「紅玉」×「ウースターペアメン」を交配して育てられた「東北3号」

昭和45年に、農林2号「あかね」と命名登録されました

果肉は白く、酸味が強い、味は淡泊


東北支場では、他にも

「はつあき(東北8号)」「きたかみ(東北2号×レッドゴールド)」「ひめかみ(ふじ×紅玉)」「さんさ(ガラ×あかね)」などがあります


<ふじ>

昭和14年に「国光(母)」×「デリシャス(父)」の組み合わせの実生で交配されました

昭和22~26年頃に結実、選抜試験を経て、昭和30(1955)年の秋、やっと納得のいく果実が結実したそうです

多果汁、甘酸適和、濃厚な味、香り良好、貯蔵良好との評価で「東北7号」となり、その後「農林1号の『ふじ』」として登録されました

交配から23年、多くの研究者の理想となる夢のりんごの誕生です


「ふじ」は、国光や紅玉を超える優良品種として大人気となり、日本だけではなく、今や世界の王座を占める品種となったのです


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群馬県の伊勢崎市にある群馬県園芸試験場(現:群馬県農業技術センター)で交配育成された品種には

「陽光」「新世界」「あかぎ」「ぐんま名月」などがあります


秋田県横手市の秋田県果樹試験場で交配育成された品種

「千秋」「アキタゴールド」など

北海道夕張郡長沼町の北海道中央農業試験場で交配育成された品種

「ハックナイン」「ノースクィーン」

岩手県北上市の岩手県園芸試験場で交配育成された品種

「黄王(きおう)」

長野県須坂市の長野県果樹試験場で交配育成された品種

「シナノゴールド」「シナノスィート」「シナノレッド」

その他、民間で生まれた品種

「王林」福島県の大槻只之助氏が、昭和27年命名「ゴールデン・デリシャス」×「印度」を交配育成、今でも大人気です

「金星」青森県の佐藤肇氏が、昭和29年「デリシャス」×「国光」を交配育成し、昭和47年に登録

「やたか」秋田県の平良木忠男氏が、「ふじ」の枝変わりから発見、昭和62年に登録

「未希ライフ」青森県の工藤清一氏が、昭和56年「千秋」×「つがる」を交配し、昭和56年登録

「秋映(あきばえ)」長野県の小田切健男氏が、「千秋」×「つがる」を交配し選抜育成、平成5(1993)年に登録

「トキ」青森県の土岐伝四郎氏が、「王林」×「ふじ」を交配育成し、平成16年に登録

「アルプス乙女」長野県波多腰邦男氏が、昭和39年に「内山紅玉」の自然交雑実生を養成し選抜した小りんご


日本人が、交配し育成した品種は、書ききれないほど多様で、面白いりんごが多いのです

まさに、モノづくりであり、芸術作品でもあるのです

これからも新品種は、続々と生まれ、育まれて行く

そんな風に続いて行けたら良いなと思います


ラストになる、その10で、全体をまとめたいと思います

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)




まとめです

りんご(萃果)(林檎)は、3つのルートで日本に入って来ました

①中国→朝鮮→日本 これが「和林檎」です鎌倉中期頃

②ポルトガル→長崎(耶蘇教)→伊達政宗 これはほぼ原産地と同じ原種です

③ヨーロッパ→フランス・アメリカ→日本 これが「萃果」 明治初めで改良種です(フランスでは「pomme」アメリカでは「apple」)

栽培過程で分かったのは

①種子から発芽したりんごは、元のりんごよりも質が落ちる事

②切られた枝から発芽したりんごは、元のりんごと同じ性質を持つ事

③ごくまれに、種子から発芽したりんごの中に、形が大きくなったり、甘くなったりする物がある事

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日本に適した品種苗を選び、りんご栽培の技術を教えてくれたのは、アメリカ人の農業教師「ルイス・べーマー」氏




りんご栽培は、開拓使が導入し、北海道でまず広がり、果樹栽培がお金を稼ぐ仕事と認定された

りんご栽培は「東北地方」の失業武士の対策としても使われ、各地に広がっていった

鉄道が運行を始めると蒸気機関車が輸送の中心となり、青森県、岩手県が栽培の中心となって行った

青森と岩手が、りんごの産地として名前が大きくなって行ったのは、交通網と官民両方の努力の成果

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りんご栽培では、病害虫との戦いで努力と工夫をして来たのは青森県で、ボルドー液を粉化する事で効果があった

地域ごとの取り組みによって、りんご栽培には、大きな差が出ていった



苗の導入直後から、各地で、りんごの品種別の特性をつかみ、理想のりんごを交配して試験していた

岩手県盛岡市の農林省園芸試験場東北支場(現:果樹研究所りんご研究所)で、総数13,775本の中から「ふじ」は生まれた

昭和14年に「国光(母)」×「デリシャス(父)」の組み合わせの実生で交配し、昭和22~26年頃に結実、選抜試験を経て、昭和30(1955)年の秋、やっと納得のいく果実が結実


多果汁、甘酸適和、濃厚な味、香り良好、貯蔵良好との評価で「東北7号」となり、その後「農林1号の『ふじ』」として登録されました

交配から23年、多くの研究者の理想となる夢のりんごの誕生しました


多くの品種の中で、日本のりんご栽培技術の結晶の代表品種が「ふじ」だったわけです

すでに、世界22か国でふじは栽培がされていて、ふじは、世界市場で最も成功したりんごと言われています


昭和32(1957)年頃、消費者ニーズが変化し始め、国光と紅玉が中心だった生産に変化が出始めます




ここで、次世代りんごをデリシャス系に行くか、国光に代わる品種への模索が始まっていました

選抜試験で良好だった「ロ-628」(国光×デリシャス)が注目される事になりました

この品種に一番に注目し、次世代りんごだと確信した研究者が、農林省園芸試験場東北支場(青森県藤崎町)の支場長の「森英男」氏です

国光を親とする組み合わせ6組、層実生数2241個体、その中で、国光に似ていたのは2個体だけだったそうです

いかに、その確率が低かったのかが分かりますね

「東北7号」と名付けられ、栽培が広がり、東京千疋屋でも試食会が開かれたり、評判が知れ渡ります

そして、品種名となります

藤崎町から「藤」、「藤」なら花みたいだから、ひらがなの「ふじ」となり

日本一のりんごだから富士山にもあやかって「ふじ」、世界中の消費者が、富士山=日本と認識してくれる


まさに「言霊(ことだま)」だったんですよね

日本人的過ぎる発想ですよね、言葉通りに実現してしまうのですから

やがて、国光、デリシャス時代を経て、ふじの時代になって行きました







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今でも、りんご栽培には、多くの手間がかかっています

まだ雪の残る時期に枝を整える「整枝」「剪定(せんてい)」する事から始まり

春には肥料を施し、防除、殺菌、殺虫、摘花、摘果、袋かけ、袋外し、葉摘(はつみ)、玉回し、収穫、選別、貯蔵、出荷です

そうやって、多くの人の手によって、安全で美味しい果実は、消費者に届けられるのです

りんごは、良く見ると、一個一個、全部違う顔をしているんですよ

りんご栽培の歴史を振り返ってみて、日本のものつくりが何なのかが、良く理解できました

理想を目指す、諦めない、努力する、年月を超えても引き継ぐ人たちがいて、やがて奇跡が生まれる



りんご栽培を極めた、篤志家の皆さん、輸入し配布した開拓使の方々、栽培を教えて広めて下さった方々、

防除や手入れを確立した方々、新しい理想のりんご作りを長い月日に渡って努力され結実に尽力された皆さまに感謝いたします

そして、この本の著者の「富士田金輔」氏に敬意を贈ります



長くなりましたけど、「りんごの歩んだ道」の感想でした!


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畑も雪解けとなり、耕作、育苗と、忙しい毎日が始まりました

雪が少なかった割には、雪解けが遅れています


天候、気温、日照、降雨、ちょうど良いサイクルに恵まれますように、祈って!


「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その1

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その2

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その3

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その4

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その5

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その6

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その7

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その8

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その9

「りんごの歩んだ道」―明治から現代へ、世界の“ふじ”が生まれるまで 読後その10(終)



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